So-net無料ブログ作成
美少女フィギュア勃興史 ブログトップ
- | 次の5件

美少女フィギュアは燃えているか・その4・『自由造形時代、終わる』 [美少女フィギュア勃興史]

時は80年代半ば。
ワンダーフェスティバルが始まり、ガレージキット市場は静かに拡大を続け。
模型誌にフィギュア製作記事が掲載される光景も違和感がなくなり、巻末の広告がガレージキットの宣伝で厚みを増し始めた頃。
老舗模型/ホビー誌『HobbyJapan』は、別冊『ALL THAT FIGURE』を発売。
着実に、どことなく地下活動的に、女の子フィギュアは模型分野としての地位を確立しつつありました。
そんな女の子フィギュア模型に『版権』の影が忍び寄ります。

私がワンダーフェスティバルに初参加した当時、アマチュアディーラが販売するガレージキットは『趣味で造った模型』でした。
怪獣だろうが、虎縞ビキニの鬼娘だろうが、ステッキ片手に呪文を唱える魔法少女だろうが、立体化するのは自由で、販売するのも自由でした。
それは、個人が趣味で、自らの技術を用いて、何らかの形を成した『模型』であり、2次大戦中の戦車をプラ板で完全自作するのと同じ感覚だったからです。
造形対象に版権が存在し、立体化している自分たち『趣味の模型人』が権利を侵害していようなどとは、考えもしなかったのです。

産声をあげたばかりのワンダーフェスティバルは、徐々に参加者を増やしていたものの、まだまだ小さな存在。
アマチュアディーラに商売っ気を匂わせる者はほとんどおらず、販売数もごく少数。
もちろん売れっ子ディーラはいましたし、行列ができるブースはありましたが、今とは比べるべくもありません。
お客さんにも今ほどの焦りがなく、のんびりと売り手と買い手が話し込む場面も頻繁に見られ。
売り手はお客さんの顔を見て、商品を買ってくれて『ありがとう』と気持ちをこめて手渡し、1度来てくれたお客さんの顔を覚える余裕がありました。
閉会後には主催者とディーラが話し合うミーティングが行われ、反省や次回への展望など、活発な意見交換がなされました。
イベント全体を通して、熱気というよりも、温もりが感じられました。

一方で、暗然と存在し続ける1つの矛盾に、多くの人は気づかない、いや気づくまいとしていました。
たとえば、とあるアマチュアディーラが虎縞ビキニの鬼娘を販売、すぐ傍ではガレージキットメーカーも虎縞ビキニの鬼娘を販売
アマチュアディーラの作品は『趣味の模型』、ガレージキットメーカーの作品は『版権許諾を得た商品』。
同じキャラクタを立体化したもので、同じように販売しているのに、アマチュアは趣味で、メーカーは商売
これは大いなる矛盾です。
さらに困ったことに、メーカーの商品よりも、アマチュアディーラの作品のほうが魅力的だったり、何でも『』にしちまってたり。
『それはちょっとまずいんじゃ…』といった正視に堪えない作品もありました。
版権者とメーカーにとって、捨て置けない事態だったでしょう。

版権許諾を受けた正式な商品と、個人が趣味で造った模型が同じ場で商われるという矛盾は、ワンダーフェスティバルが回を重ねるにつれて無視できないものとなっていきました。
閉会後のミーティングでも疑問視する声が上がり始め、議論が白熱することもありました。
主にガレージキットメーカーと主催者側が、何らかの解決策を求め。
アマチュアディーラからは反発する声が上がる、という構図だったと記憶しています。

ガレージキットメーカーは、商品としてキャラクタを立体化。
版権者に商品化の許諾を求め、監修を受けて、権利使用料を支払って成立する『商い』です。
アマチュアディーラは、キャラクタを立体化したとはいっても『あくまでも趣味』。
生産数も10個に満たない場合が多く、商いが目的ではなく、展示して『買ってもらえたら幸運』といった姿勢です。
大げさに言えば、立体化した作品を通じて、見てくれた/買ってくれたお客さんと、キャラクタへの愛情を共有する…そのために造っていました。

それなのに『商い目的のガレージキットメーカーと同じ土俵に上がれ』と言われるのは甚だ理不尽であると、多くのアマチュアディーラは感じていました。
好きなキャラクタを自由に造り、価値を認めてくれるお客さんに販売する…手間はかかりますが、見返りはごくわずか、まさしく趣味の成せる業です。
そも、自分で造ったものは自分のものであって、著作権は自分にあり、他の誰かの権利が及ぶという理屈が理解できない、という声もありました。

されど、造形イベントもガレージキット市場も成長を続けます。
趣味の模型とはいえど、事実、商品として販売している以上、ガレージキットメーカーのそれと『違う』と言い張るには限界がありました。
ガレージキット製作者が何らかの団体を組織し、それなりの『』や『知識』を持っていたならば『表現の自由』を盾に戦えたかもしれませんが。
私たちは何の力も持たず、法的にも無防備な、弱い存在でした。

そして90年代に入り、どこか歪ではあるけれど、矛盾の解決策として導入されたのが『当日版権』です。
導入当初は非難轟々だった当日版権は、今現在まで続くガレージキット市場、とくに女の子フィギュア市場を支える事となるのです。

いつものように、次回へ続きますよ。


nice!(0)  コメント(4) 

美少女フィギュアは燃えているか・その3・『ガレージキットフェア、始まる』 [美少女フィギュア勃興史]

80年代初頭、今のように通信網が発達していない時代。
互いの存在を知ることなく、全国各地に身を伏せ、女の子フィギュア制作に挑んでいた若き模型愛好家たち。
女の子フィギュアを造っているのは、日本中で自分独りかもしれない…
そんな孤独と戦っていた彼等が、模型誌などを通じ、互いの存在を知ったあの頃。
現在まで続く模型/造形イベント『ワンダーフェスティバル』が、第1回開催を迎えます。

あれは1984年あたり。
GAINAX社前身の一角『ゼネラルプロダクツ:通称ゼネプロ』が、ガレージキットを中心としたイベントを立ち上げました。
ガレージキットフェアとも呼ばれたこのイベントこそ、産声をあげたばかりの『ワンダーフェスティバル』です。

それまでにも全国各地で、小さな模型イベントは開催されていました。
同じ模型店に通う常連客が、互いに作品を見せ合ったりコンテストを催したり
大学の模型サークルが、学園祭で展示会を行ったりと。
丹念に作りこんだプラモデルや、完全自作(フルスクラッチ)した1品モノの模型など、自慢の力作を『誰かに見てもらう』場でした。

ワンダーフェスティバルも、模型イベントであることに違いはありませんが。
『誰かに見てもらう』場であると同時に『作品への評価として、対価を払ってもらう』場であるってところが、大きく異なります。
しかも『ガレージキットの展示即売会』ってんだから、斬新にして冒険的な企画です。

何が冒険的なのかってぇと、ガレージキットの認知度。
模型愛好家の間では、特撮モノ、ロボット、スケールモデル、フィギュアなど、ガレージキットの存在は知られていましたが。
市販のガレージキットや複製素材が高価だったこともあり、興味はあるものの、実際に触れたことのある人はまだまだそう多くはいませんでした。

そんな時代にガレージキット制作者を集めて、展示即売イベントを行おうってのが、ワンダーフェスティバルです。
正直なところ『イベントとして成立するんだろうか?』と疑問を覚えましたが。
1回目はまずまずの成功だったと伝え聞きました。
女の子フィギュアを造って販売している人も大勢参加しているらしいですし、どうにも気になります。

となれば見に行くしかありません。
確かあれは、ワンダーフェスティバル2回目か3回目の開催。
中学生だった私は、ディーラ参加を目論む地元大学の学生Aを保護者に、中学の同級生にしてフィギュア趣味を持つ男Kと共に上京。
一般参加で『どんなイベントなのかな?』と偵察しに行ったんです。

場所は東京浜松町、都立産業貿易会館(通称:都産貿ビル)の2階か3階だった…ような気がします。
思っていたよりも狭い場所で、思ったよりも客が入っていて、しかしながら思っていた通りの『まったりイベント』でした。
入場時に『ペラっ』とした手作り感溢れるパンフレットをもらったような…何が書かれていたのかは思い出せませんが。
なにせディーラブースが、30~40卓ほどしかありませんから、分厚いガイドブックなど必要ありません。
1枚のパンフレットで十分なほどに、会場は狭く、参加者も少なかったんです

が…そこには特撮モノ/スケールモノ/ロボットモノに混じって、多数の女の子フィギュアが出品されていました。
虎縞ビキニ魔法少女やその他もろもろの女の子フィギュアが、怪獣や巨大ロボットや特撮ヒーローに負けじと、愛らしく佇んでるんです。
ガレージキットメーカのブースには、模型誌でしか見られなかった作品がずらりと並び。
アマチュアブースにはまだ版権云々の縛りがなく、今では考えられないような作品が微笑んでいました。

よもやあれほど多くの女の子フィギュア制作者がいようとは…衝撃でした。
ガレージキット市場、とくに女の子フィギュア市場は私が思っていたよりも成長しており。
造り手も買い手も、まだまだ増えていくに違いないと、実感しました。

そんなわけで、初めてのワンダーフェスティバルは、驚きと希望とキャストの匂いと、同好の士にめぐり合えた喜びを与えてくれました。
そして『ディーラ参加するぞっ!』という決意を胸に、会場を後にしたのです。

またしても次回へ続くらしいですよ。


nice!(0)  コメント(8) 

美少女フィギュアは燃えているか・その2・『独りぼっちじゃなかったんだ』 [美少女フィギュア勃興史]

前回は80年代初頭、全国各地に身を伏せた若き模型愛好家たちにより『女の子フィギュア開放運動』が動き始めた…といったお話でした。
戦車、飛行機、艦船、車、ガンダムなどなど、様々な模型分野で腕を磨いていた模型愛好家たち。
彼等の『ごく一部』が女の子フィギュアに目覚めちまったってところから、事態は大きく動き始めます。
さて、彼等はいかにして、フィギュア製作者となっていったのか。

まずは、時代が今とは違う、ってところを知っていただかねばなりません。
ワンダーフェスティバルも存在せず、ネットや携帯電話なんて軍事機密か空想科学の域
どこで、誰が、何を造っているかなど、知る術がありませんでした。
よって『女の子フィギュアを造っているのは、日本中で自分1人なんじゃなかろうか』といった孤独感を胸に、試行錯誤を重ねていたんです。
全国各地に身を伏せてフィギュア製作に挑んでいる者がいるんだと、互いに知ることとなるのは数年後でした。

ここで当時、どんな具合にフィギュアを造っていたのか、お話しましょう。
人によって様々だったようで、私が試した方法だけでも数種。
全国の同志諸氏が試していたという独創的な方法を加えると、10種ほどはあったようです。

・プラ棒にラッカーパテを盛ってみた
・出回り始めたばかりの模型用エポキシパテを使ってみた
・完全硬化すると岩のように硬くなる工事用のエポキシパテを使った
・粘土を…文字通り『土でできた粘土』を使った
・自動車用のポリパテを使った
・針金を芯にして紙粘土を盛った
・石粉粘土を使った
・プラ板とプラ棒を組み合わせて大よその形を出し、その上に模型用エポキシパテを盛った
・ミクロマンを芯にして、ポリパテで女体へと整形してみた
・リカちゃん人形の改造を試みた
・バービー人形の改造を試みた
・GIジョーに乳房をつけてみた
・1/35サイズの兵隊フィギュアを改造した
・いくつか発売されていたキャラクタフィギュアのプラモデルを改造した

…こうして列挙すると、いくつかの方法はもはや笑い話ですね。

高価で、かつ、質が悪く、使い物にならない模型用エポキシパテ。
プラ棒にラッカーパテを大量に盛り付けたところ、硬化するのに1週間。
しかもプラ棒が溶けて歪み、硬化したらヒケが生じて真っ二つ。
GIジョーに乳房をつけてどうするつもりだったんだろう??。
リカちゃんやバービー人形は、成形素材からして改造に向かない、そも衣装はどうするんだ?、縫うのか?。
『土の粘土』は、当然ながら硬化しても
残念ながら、土ではフィギュアは成立しなかった。
……などなど。
ですが、当時は真剣に製作法を捜し求め、様々な可能性を試したんです。

このような試行錯誤の中から、実用性によって取捨選択が進み、いくつかの方法が確立されていきました。
大別すると、粘土系素材を使った製作方法と、ポリパテを使った製作方法ですね。

粘土系素材には、紙粘土、石粉粘土、エポキシパテを得意とする製作者が。
ポリパテには、盛っては削るを得意とする製作者が。
それぞれに、それぞれの製作法を確立していく事となります。

そんなこんなで数年の月日が流れ。
いつだったか唐突に、模型専門誌に女の子フィギュアが掲載されたんです。
その頃、模型誌の記事構成は、スケールモデルが『』、特撮モノが『』、ガンプラが『』といったところ。
未だガンプラですら『模型としては云々』と云われていた時代。
極めて硬派な誌面構成の中に、フルスクラッチされた女の子フィギュアが掲載されたのです。
これは、ちょっとした事件でした。

この『ちょっとした事件』によって、私たち全国に身を伏せていた女の子フィギュア製作者は知ったのです。
独りぼっちじゃなかったんだ』と。

例によって次回に続く…らしいですよ。


コメント(3) 

美少女フィギュアは燃えているか [美少女フィギュア勃興史]

今日は少しばかり、女の子フィギュアにまつわる昔話などいたしましょうか。
私がフィギュア製作を始めたきっかけは、こちらをご覧いただくとして。
此度は、女の子フィギュアという模型分野が、鳴動し始めたあの頃、を振り返ってみましょう。

あれは1981年あたりだったでしょうか。
ガンプラが一時的なブームではなく、1つの模型ジャンルとして定着しつつあった頃。
いわゆる『美少女フィギュア』が羽ばたき始めました。

ガンプラは、ご存知アニメ作品『ガンダム』が大人気を博し、バンダイ社がプラモデルを発売して大ブームを巻き起こしました。
プラモデルの中身が、それまでのロボットモデルと異なり、模型的な精巧さを感じさせたってのが新鮮でしたし。
劇中でのミリタリックな設定も相まって、多くの模型ファンを惹き付けました。
それゆえ初期のガンプラ工作表現は、色濃くミリタリーキットの影響を受けていました。

そんなガンダムブームから、少し遅れてやってきたのが美少女フィギュアです。

フィギュアという模型分野そのものは、さして新しいものではなく。
とくにミリタリー模型に欠かせない兵隊フィギュアは、タミヤ社の人形改造コンテストで盛り上がっており、既に独立した模型分野を形成。
コンテストに出品された作品には、兵隊フィギュアを改造して、アニメや漫画のキャラクタを再現したものもありました。
同じ頃、一部の模型/玩具メーカが、アニメや漫画のキャラクタフィギュアのプラモデルやガレージキットを発売し始め。
『美少女フィギュア』が世に広く認知される時代への助走は、加速していました。

しかし、自らの手で好きなキャラクタのフィギュアを造ってみよう、とする者はそう多くはいませんでした。
模型人口は今と比べりゃはるかに多く。
限られた道具や素材を巧みに用いて、様々な模型を自作する技術を持った猛者も数多く存在しました…が。
・日々の模型工作で基礎技術を持っており
・アニメや漫画の影響を受けやすく
・女体への興味が膨らんで悶々としている年頃
これらの条件を満たす者でなければ、キャラクタのフィギュアを造ってみよう、まして女の子フィギュアを造ってみよう、とは考えません。
条件を満たしていたのは、小学生から大学生あたりの若い模型愛好家のみ。
そう、当時小学生だった、私のような。

もしかすると『女の子フィギュア=模型』という感覚に違和感を覚えている方もおられましょう。
今時のフィギュア製作者の中には、模型経験が全く無い方もいるといいますし。
完成品フィギュアでしか、女の子フィギュアに触れたことが無い方にとっては、フィギュアが模型だ、という感覚は皆無でしょう。
どうやらフィギュアは成熟し、プラモデルや模型とは異なる存在、となりつつあるようです。
しかし、当時の私たち模型愛好家にとって、女の子フィギュアは間違いなく『模型』だったんです。
戦車をフルスクラッチするのも、女の子フィギュアをフルスクラッチするのも感覚としては同じだったんです。

されど…感覚が同じだといっても、必要とされる技術や知識は別物。
どうやって造るのか、製作技法は確立されておらず、試行錯誤の連続。
なにより若い模型愛好家にとって、女体の構造からして解りません。
加えて、女の子の体を立体表現するってのが、なんとなく『恥ずかしい』。
むっ…とか。
しっ…とか。
こ、ここっ…こ、股間とかっ。
そりゃもう『イケナイ物』を造っているかのような、背徳の香りにも似た甘いサスペンスです。

とまぁ、どことなく世間に背を向けながら動き始めた『女の子フィギュア解放運動』。
それは全国各地に身を伏せた若き模型愛好家たちにより、レジスタンスの如く、密かに、こそっと、動き始めたのです。

そんなわけで次回へ続く…らしいです。

 


コメント(2) 
- | 次の5件 美少女フィギュア勃興史 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。